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2004.04.22

日の名残り

カズオ・イシグロ 著 / 土屋政雄 訳

再読。映画の方が有名なのかな。映画は、原作とあんまり似ていない。原作の方が優れていると思う。
カズオ・イシグロは、どの本でも「破滅的な出来事と、そこからの再生」「取り返しの付かない過去と、その上に築かれる未来」というテーマを扱っている。この本では、特にそのテーマがシンプルに伝わってくる。
舞台は1950年代のイギリス。古い貴族の屋敷、ダーリントン・ホールとともに生きてきた老執事が、元の所有者の死後、新たに屋敷を買い取ったアメリカ人の脳天気な奨めに従って休暇をとり、イギリス西部を旅行する。その旅行のあいまあいまに、かつての主人であるダーリントン卿、自分と同じ執事だった父、戦前この屋敷に勤めていた女中頭のことをつらつら思い出す、という内容。

翻訳では、「執事文体」を作り上げた功績が大きいだろう。

おそらく、どなたでもそうであろうと存じますが、私も従来のやり方を急に変えてしまうことにはためらいをおぼえます。しかし、一部に見られるような、伝統のための伝統にしがみつくやり方にも反対です。電気と新しい暖房のこの時代に、ほんの一世代前にせよ、過去と同じ人数をそろえておく必要がどこにありましょう。むしろ、伝統の名のもとに漫然と多人数を雇いつづけることが、召使に不健全な暇を与え、この職業に急激な堕落をもたらしたのではありますまいか。

って、ほかのどこで使う、執事文体。
礼儀正しく、不正確さを嫌う主人公だけあって、留保や但し書きだらけの語り口であるが、訳者は、丁寧語や謙譲語を使いながら、同時にすっきりとした日本語に仕上げている。

この小説、あらすじだけだと、老人が来し方を振り返るだけの心境小説に聞こえるかもしれないが、そんなナイーブなものではない。
主人公は、自らの半生を美化しているが、その奥にある残酷な事実が、読者にちゃんと提示されてしまうのだ。
第一次大戦後、ドイツ人の友人の自殺をきっかけに、ヨーロッパの危機を救うべく立ち上がったかつての雇い主、ダーリントン卿は、最終的にはナチスの対イギリス戦略にいいように利用されてしまう人物である(実際の歴史でも、イギリスは対独宥和政策をとって、ナチス・ドイツに譲歩しつづけた)。
また、主人公の執事は、自らの職業倫理に忠実なあまり、年老いた父親に対して不必要に距離を置き、女中頭の思いをあらゆるところで踏みにじる。
それらの悲喜劇と、登場人物のどたばたぶりをたっぷりと味わわされるにもかかわらず、物語の雰囲気は静かで穏やかである。エピソードは過去と現在を行ったり来たりするが、物語の時間軸を操るときによく見られるあざとさもない。主人公の言葉で語られる登場人物は、みな生き生きとしている(特に、ダーリントン卿の名付け子であるレジナルド・カージナルズという青年は最高である。青年と執事は互いに敬意を払っているが、そのやり取りはいつもちぐはぐなのだ)。
この呑気な青年は、後にベルギーで戦死し、ダーリントン卿は戦後、世論に糾弾されて(はっきりと書いてはいないのだが)自殺に追い込まれる。

この本のかなめは、かつての女中頭ミス・ケントン(再会したときには、ミセス・ベンになっているが)との再会シーンである。彼女は、別れる間際に次のように言う。

結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。

人生には、やり直しのきかないこともある。彼女のこの科白とともに、主人公が半生を賭けて抱いていた信念は、もののみごとに無駄だったことが浮かびあがる。
最後の夕暮れのシーンで、あいかわらずの独り合点を織り交ぜながら、執事は、それでも残りの人生に希望がないわけではないことを認識する。ささやかな認識だが、このおかげで、苦い悔悟の物語でありながら、楽天的な主人公の成長物語を読んだ気にもさせてくれる。

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